頭の中でのモヤモヤしていた概念を明確に言語化してくれていて、感心した。
虐待というテーマを扱う上で、最初に直面する問題が、「虐待とは何か」という定義である。わかりきったことのように思えるかもしれないが、実はこれこそが虐待問題を扱う上でもっとも難しいことであり、解決にたどり着けない大きな障害である。他の多くの社会問題と同じように、個人個人の受け止め方は多種多様であるからだ。
仮に、親が理由も特に無く子どもを殴るのが明確な児童虐待だとしよう。では、怪我をしないように加減しながら殴るのはどうだろう? 正当な理由があれば虐待ではないだろうか? だとすれば、子どもがお友だちを殴ったというのは、子どもを殴る正当な理由だろうか? 逆に、反抗的な態度を取っただけで殴るのは虐待だろうか? 1度きりならOKで、繰り返せばNG? 子どもの人格を否定するようなこと、たとえば、「お前は馬鹿だ」というのは精神的虐待だとよく書かれているが、冗談で言っても虐待だろうか?」
一番わかりやすいのは、「被害者(子ども)が虐待を受けていると思えば虐待である」、という考え方である。しかし、客観的に見て虐待を受けている子どもでも、本人は虐待だと思っていないケースも多い。多くの子どもは自分の家庭を当たり前だと思って育つ。外の世界を知らないから、親から酷い扱いを受けていても、それが一般的ではないということに気付かない。「もしかしたらうちの親はおかしいのかもしれない」という気持ちが芽生えても、親を愛しているがゆえに辛い気持ちを押し込め、自分が悪いのだと結論付けてしまうことも少なくない。実際、わたしの本を読んで、「自分が小さいときに受けたのは虐待だったのだと初めて気付いた」と手紙をくれる大人がたくさんいる。
逆のパターンもある。実際には客観的な虐待の事実がない場合でも、周囲の影響や精神疾患などによって虐待を受けたと信じこんでしまうこともあるのだ。多くの手紙をいただく中で、「自分自身は虐待をした記憶はないのだが、子どもからは児童虐待を受けた、それによって不幸になった、と責められている」 といった内容のものがある。親が良かれと思ってした行為が子どもにとっては本当につらいことだったというケースが多いのだが、実は、子どもが「自分の辛さをすべて親の責任にしているだけ」というケースも実際に存在する。子育てという長い年月の中で、親が子どもを傷つけたのか、子どもが自分の都合のよいように記憶を書き換えたのか。時が経ってしまえば答えが出ることはない。
要するに、家庭という密室の中で起こるこの児童虐待を客観的に評価し、刑事裁判のように白黒をつけるのはそもそも無理なのである。しかし、それが故に第三者の介入が遅れ、凄惨な事件に発展してしまうこともあることは、近年のニュースを見れば明らかだ。
それを未然に防ぐためには、まず、虐待=悪であるというような見方を根本から変えてほしい。悪(虐待をする親)を倒せば正義が勝つ(子どもが守られる)というような美しい物語は、存在しない。
もちろん虐待であるという判断の基準となる定義は存在する。この本を書く上でも、普段の診察をする上でも、一般的な定義を基本としている。しかし、特に子どものこころへの影響を考えたときには、「それが児童虐待の定義に当てはまるかどうか」ということより、「長い子育ての中で、子どものこころや脳を傷つける可能性がある行為をしないように努力する」ことが、もっとも重要であるということを忘れてほしくない。
近年、欧米では、チャイルド・マルトリートメント、日本語で「不適切な養育」という考え方が一般化してきた。身体的虐待、性的虐待だけではなく、ネグレクト、心理的虐待を包括した呼称であり、子どもに対する大人の不適切な関わりを意味した、より広い観念である。この考え方では、加害の意図の有無は関係なく、子どもにとって有害かどうかだけで判断される。また、明らかに心身に問題が生じていなくて も、つまり目立った傷や精神疾患が無くても、行為自体が不適切であればマルトリートメントと考えられる。
わたし自身、本来このマルトリートメントという言葉の方が適切であると考えている。虐待という言葉は強すぎて、子どもにとって「不適切」な行為であっても、虐待と感じるほどひどいとは思えないために、その行為が見過ごされる。また、必死で子育てしている親を深く傷つけ、人格自体を否定してしまいかねない。親が子育てに自信を失うことは、子どもとの関係がますます悪化することにもつながる。
行為が重かろうが軽かろうが、子どものためを思っての行為であろうが無かろうが、傷つける意図があろうが無かろうが、児童が傷つく行為は改めるべきである。
もちろん、親には教育の義務があり、子どもの将来を考えると必死になるのも当然のことである。親の期待が子どものがんばりの原動力となる。ただ、自分が子どもに教えている姿をちょっと引いて客観的に見る機会を作ってほしい。子どもには伸びる時期と伸びない時期がある。できない時期に親が必要以上に必死になると、自分はだめなのだと悲観してしまうだけである。むしろ、そのことが嫌いになってしまうかもしれない。もともと子どもには向いていないのかもしれないし、少し待ってみれば勝手に伸びていくかもしれない。別のやり方だとあっさりクリアできるのかもしれない。それは誰にもわからないが、少し長いスパンでこころに余裕を持って子どもを見てほしい。親だけが空回りして、子どもにきつく当たってはいないだろうか? 少なくとも、その時に必死になりすぎた親の暴言が子どものこころに傷をつけ、その後の伸び代を縮めてしまうようなことは避けてほしいものである。
虐待相談件数の増加は、虐待が社会問題として認知された結果の産物であるとの考え方もある。実際の数が増えているのではなく、これまで見過ごされていた、または明るみに出なかった虐待が認知されるようになったに過ぎない、という考え方だ。実際、虐待を受けている子どもが、自分が被害者であることに気付いていないケースは多い。子どもにとっては自分の家庭がすべてであり、ほかと比べることが難しい ために、その状態が当たり前だと思ってしまうからだ。だから、虐待のニュースを見て初めて、自分の置かれている状況が虐待であると気づく子も少なくない。子どもの泣き声や服装や行動を不審に思っていた隣人が、待のニュースを見てようやく通報を決意することもある。確かに児童虐待が社会問題として認知されたことは、解決のための大きな一歩であることは間違いない。
水漏れに気付く能力がもともと高い親もいれば、残念ながらやはり気付きにくい親もいる。わたしが診察する虐待を受けた子どもたちに関していえば、ひどい虐待の影響で子どもの精神状態が非常に不安定になっているにもかかわらず、自分の行為が正しく、子どものためになっていると信じきっている親が多い。 親自身が虐待を受けて育ったために、自らの行為が「当たり前」になってしまっているケース。実際には 行為が正しくないとわかっているけれども、「子どものため」と合理化し、自己催眠のような状態で自分は悪くないと思い込んでいるケース。結果を出すことに必死になりすぎ、夢中になりすぎて、周りが見えずに突っ走ってしまっているケース。いろんなケースがあるが、水漏れに気付いていない(または気付かないふりをしている)のが、虐待をしている親の一つの特徴でもある。
人間は、そもそも子育て本能をほとんど持たない生物である。
佐々木らは、育児経験の無い男女を集め、幼児とのふれあい経験を通して親性(親になる準備ができているか、育児に積極的か)が高まるかどうかをアンケートとfMRIを使って調査した。その結果、幼児とのふれあい体験をした群では、幼児への好感情および、育児への積極性が有意に高まった。また、fM RIにおいても、育児に関与する領域、視覚野や聴覚野などの賦活が認められた。
つまり、人間の養育脳 ―子どもを愛し世話する能力のある脳― は、子どもと触れ合うことによって喚起され、育っていくのである。これは、女性は生まれながらにして母親であるという神話を覆す結果である。
長い歴史の中で、人間は、小さいときから自分より小さい子と触れ合ってきた。そうして養育脳をはぐくんだあとに自分の子どもを産み、産んでからは周りの人間のサポートを得ながら育児をしたのだ。
核家族化が進む中、子どもを産む以前に小さい子に触れる機会は激減した。多くの親が初めて抱く子が自分の子という状況である。まさに、「親となる準備は何もできていないのに、突然何もできない、意思の疎通もままならない生物を渡された」状態である。今の人間は、準備ができていない上に周囲のサポートもなしに育児をしなければならない。不安で、自信が無いのは当然のことなのだ。
親への大きすぎる負担が子への暴力や暴言の原因となっているのであれば、それは本末転倒である。教育や食育などで得られる良い影響よりも、ストレスを与えることで与える悪影響の方が大きくはないだろうか? 賢い子どもを育てたい、健康でいてほしいというのは普通の親の願いである。しかし、それは親が勝手に願っていることであることは忘れてはならない。子どもの脳を鍛えたいのは、子どもではなく、賢い子どもを持ちたい親なのだ。もちろん、親のためであれ、子どものためであれ、一生懸命教育するのはすばらしいことである。しかし、それが親の強いストレスとなり、子どもがそのはけ口となっているような状態は適切ではない。