岡田尊司「母という病」
躾なのか、病気なのか、線引きが難しい。この問題がいま最も関心の高いテーマである。
女性といえども、まだ娘のうちは、子どもに無関心な人も多い。子どもは泣くので嫌いという人も少なくないだろう。しかし、一度親になると、子どもが可愛くてたまらなくなる。泣き声さえ愛おしくてたまらなくなる。
なぜ、そんなことが起きるのだろうか。
そこには、命をつなぐ営みに欠かすことのできない生物学的な仕組みがかかわっている。その仕組みが愛着システムだ。母性を育み、また母子の愛着を生み出す源は、陣痛を引き起こし、授乳のときに活発に分泌するホルモンと同じなのだ。そのホルモンを、オキシトシンという。
お腹を痛めて産んだ子だから可愛いという言い回しには、深い真実がある。陣痛の最中、大量に分泌されるオキシトシンが、母子の絆を一気に高め、授乳を通して、その絆はさらに持続的なものとなっていく。
抱っこや愛撫といったスキンシップが重要なのは、このオキシトシンの分泌が、スキンシップによって促されるからだ。
愛着やスキンシップが心地よく、子どもを世話することが、苦痛よりも歓びになるのも、オキシトシンの働きによる。オキシトシンには、不安を鎮め、心地よさをもたらす働きがある。
オキシトシンの分泌が悪かったり、オキシトシンと結びつくはずの受容体の数が少ないと、この仕組みがうまく働かない。不安を感じやすく、神経質で潔癖になるだけでなく、人との接触や子どもの世話をすることにも歓びを感じにくい。
生きることは不快な体験となり、対人関係も子育ても、楽しく感じられない。ネガティブな感情に支配されやすく、信頼関係も育まれにくい。 どうしてそんなことが起きてしまうのだろうか。
実は、オキシトシンの分泌やオキシトシンと結びつく受容体の数を左右するのは、幼い頃にどれくらい愛情深く世話をされたかなのだ。
大切に育てられた人では、オキシトシンの働きが良いので、自分自身ストレスを感じにくいだけでなく、子どもを育てたり、人を愛することも容易になる。
しかし、虐げられたりかまわれずに育った人は、それとは正反対な体質を身に着けてしまう。
幼年時代がいくら幸福で恵まれたものでも、その後の体験によって、愛着が大きな傷を受ければ、愛着が不安定になるということも起こりうる。
その一つは、両親の不和や離婚だ。ある意味、安定した愛着を両親と結んでいればいるほど、両親の諍いや片方の親との離別は、その子の愛着に深い傷を負わせる。対人関係や恋愛に対して懐疑的になったり消極的になったり、逆に親代わりを求めようとして過剰に依存する場合もある。
もう一つ、普通の家庭にも起きやすいのは、子どもに対する過度な支配やコントロールによって、母親が子どもの主体性を侵害するという状況だ。母親は最善を尽くし、 良い親をしているつもりでも、子どもが求めているものとの間にギャップが広がり、愛着は不安定となっていく。子どもの気持ちを汲みとれていないからだ。
親との関係がもちろん重要だが、年齢が上がるとともに、その子をとりまく友人や教師などとの関係も重要になっていく。安心していられる居場所が確保され、安全基地になってその子を見守ってくれる存在に出会えると、たとえ家庭が多少不安定でも、 その子の愛着は次第に安定したものに変わっていく。
母親の役割は、外の世界とのかかわりにおいても、その子が安心できる環境や安全基地となる存在に恵まれるように、さまざまな配慮や働きかけをすることだと言える。自分自身が、安定した愛着をもつ母親では、そうしたことを、うまくやりこなしやすいが、母親自身が不安定な場合には、問題が生じていても無関心に放置したり、極端な対応をとったりして、逆に子どもを孤立させてしまうという結果を招きやすい。
もちろん、母親の力だけではどうにもならない部分も大きい。社会自体が優しさや余裕を失い、自分を守ることに汲々としたり、融通の利かないルールで杓子定規な応をしたり、多数派の都合ばかりを優先したりするようになると、不安定で立場の弱いものは、ますます居場所を失っていく。
その意味で、母という病は、母親だけに原因があるというよりも、母親や子ども 守れない社会にも、原因があるということだ。
回避的な人は、…失敗を恐れ、チャレンジを避けるため、自分の真価を発揮することができない。石橋を叩きすぎて、橋を渡らないままに年を取ってしまうということにもなる。
慎重さも大事だが、思い切ってやってみるという勇気も、人生を切り開いていくには必要だ。
回避的な若者に共通するのは、親からあまり褒められたことがなく、悪い点ばかりをあげつらわれてきたことだ。親はたいてい真面目で、義務感の強い人で、~するのが楽しいとか、~したいという気持ちよりも、~せねばならないという責任やルールを重んじる。
親の存在が大きすぎ、過干渉になって、子どもの主体性が脅かされていることも多い。子どもは、自分の願望や意思よりも、親の意向に支配され、無理やり動かされている。
チャレンジして成功しても評価されず、失敗したときだけ責められては、チャレンジなど割に合わなくなってしまう。自分の意思で何かをやろうとして失敗すればそれこそ何を言われるかわからない。
それならと、非難を避けるために、親の意向に従い、自分が本当に望んでいるのではないことを選んでしまう。
そういう状況が小さい頃から続くと、チャレンジするよりも、無理なことはせず現状維持を第一とするようになる。自分で意思決定をするよりも、責任を逃れるために他の人に決定をゆだねてしまうということにもなる。
そうなると、本当にやりたいことをしているわけではないので、積極的な意欲もなくなってしまう。
母親は義務感のとても強い人だったが、義務感や潔癖さというのは、母性的な優しさとは正反対なものだ。先にも触れたが、母性的傾向が強まると、潔癖さやこだわりといったものは薄れ、寛大になる傾向がみられる。これは価値観の問題ではなく、生理的メカニズムでそうなるのだ。母性や愛着に関係するオキシトシンというホルモンは、潔癖さを和らげ、寛大にする働きをもつ。
実際、母性が高まった状態になると、わが子に対して優しくなるだけでなく、どんな子どもに対しても愛情を感じやすくなり、心が穏やかで寛くなる。母性とは、損得や規則で考えるのとは正反対な性質をもつ。
ところが逆に、母性が乏しい状態になると、潔癖で完璧主義になり、細かい問題が気になり、他罰的で、批判的で、排他的になる。心が狭くなると言ってもいいだろう。 自分の身を守るのを優先し、利己的に生きるのであれば、母性など乏しい状態の方がいいわけだ。自分のことだけ完璧にこなし、それを邪魔するものは、排除した方が安全だし、身のためだ。
不安定な人は、自分の安定を図るために、しばしば盲目的な信仰や価値観、迷信的な儀式や占いに頼ろうとする。ほどほどにならば、さして害もないが、それが生活の中心になるほど肥大し、そこに子どもも巻き込まれることになると、影響は小さくない。
母という病によって苦しんだ人の多くは、母親が頼った偏執的なまでの信仰や迷信に振り回された不快で、苦痛で、ときには滑稽とも言えるような体験を味わってきているものだ。
とらわれやすく極端になりやすい性格は、先にも述べたようにオキシトシンの働きとも関係している。オキシトシン・リッチな人では、寛容で、とらわれない性格を示しやすいのだが、オキシトシン・プアな人では、厳格で、ルールに縛られ、潔癖になりやすい。
自分自身過酷な環境で育ったヘッセの母親は、オキシトシン・リッチというよりも、オキシトシン・プアな性格傾向を、典型的に示していたと言えるだろう。ヘッセが傷ついたのは、母親の愛情不足というよりも、その偏狭で頑なな価値観による部分が少なくなかった。
多くの人が不安定な心を抱え、過酷な子ども時代を過ごすことが増えている現代においては、こうしたことは、さまざまに形を変えて、もっと頻繁に起きやすくなっている。不安定な愛着を抱えた人ほど、薬物やアルコールに依存してしまいやすいように、新興宗教や占いにも救いや安心を求めようとする。
もともと希薄で不安定だった母親との関係は、そこに新たな精神的支配や押し付けが加わることによって、もっと歪なものとなっていく。身近でも、そうした例は、あまりにも溢れているだろう。
先の小川眞由美の娘・雅代さんの場合も、彼女をさらに苦しめることになったのは、母親が占いやゲンを担いだ儀式に熱中し、それに一家の生活まで縛られたことだった。占い師から緑と紫は不吉と言われると、その色が一切排除されたという。その色が間違って交じっていたりすれば、黒マジックで塗りつぶされた。最初は強制されてやっていたが、そのうち本当にその色が嫌いになってしまったという。
それは、他のすべての価値観や行動についても言えることだ。最初はいやいや押し付けられてやっていても、いつしか自分自身がそれに染まっていく。母という病は、ちょうど正常の細胞に浸潤したガン細胞のようなもので、もはやどちらがどちらとも見分けがつかなくなり、切り分けることもできなくなる。
思春期以降に、母親を拒否するようになるのは、その意味で正常な拒絶反応が、ようやく起き始めたのだと言えるだろう。
一流企業に勤める父親と、栄養士の母親をもつ高校生の少女が、覚醒剤で捕まって、施設に送られてきた。
デリヘルで売春をして、覚醒剤を買う金を稼いでいたと言う。まったく普通の家庭のお嬢さんである彼女に何が起きたのだろうか。兄と姉には、非行歴もなく、問題なく育っている。母親は教育熱心で、子育ても頑張り、堅実な家庭を築いてきたつもりだった。下の娘にだけ、なぜそんなことが起きてしまったのだろうか。
瑠美(仮名)は、どちらかというと慎重で、おとなしい二人のきょうだいとは違って、小さい頃からやんちゃなところがあった。小学校の頃は、男子に交じってドッジボールをする活発な少女だった。
好奇心旺盛で、じっとしているより、体を動かすことを好み、男勝りな少女。そんなところが、母親から見ると危なっかしく、つい注意したり叱ったりすることが多くなった。
新しい物好きで、好奇心旺盛な傾向は「新奇性探究」と呼ばれ、生まれもった気質的要素が強い。新奇性探究の強い人は、多動で衝動的で、不注意な傾向もみられ、押さえつけの養育を受けると、先の例にも見たように、ADHDなどの行動障害がひどくなりやすい。
新奇性探究が強いタイプの人は、薬物依存になるリスクも高い。つい好奇心で、衝動的に薬物に手を染めやすい。親との関係がぎくしゃくしたり、親から否定された状況があると、薬物が避難場所になってしまうことで、余計に依存を形成しやすい。
新奇性探究の強い人は、この瑠美のように、「困った子」「言うことを聞かない子」と親や教師が受け止め、否定的な接し方をしてしまいやすい。そのことで、なおのこと危険な薬物や危うい輩との関係に、避難場所を求めてしまう。もちろん、それは本当の避難場所になるどころか、地獄への入口になってしまう。
しかし、この新奇性探究の傾向は、本来は長所でもある。大移動を経験した民族では、このタイプの人の割合が高い。危機の時代を生き延びる力を秘めているのだ。ただ、それが良い方向に発揮されるためには、その特性が理解され、肯定的に受け止められる必要がある。そして、そのことを誰よりもしてほしいと子どもが望むのは、親であり母親だ。
だが現実は、母親の目には、「ガサガサしている」「言うことを聞かない」「悪いことばかりする」と映り、否定的に扱われることになりやすい。
生真面目で、潔癖な母親ほど、こうしたタイプの子どもを、何とか「良い子」にしようと、注意したり、叱ったりが多くなってしまう。
しかし、いくら注意しても、生まれもった気質でもあるので、急に変わることはないし、本人が気をつければ改善するという問題でもない。むしろ、叱られ続けることで、マイナスな影響を生んでしまう。
否定され続けることに反発を感じるようになり、反抗や行動上の問題が始まり、もう一方では、自己否定を抱え、うつや不安が強まったり、自傷行為を繰り返したりすることも少なくない。活発で、元気そうに見えて、意外に傷つきやすいのだ。
新奇性探究の強いタイプでは、共感的で肯定的な育てられ方をすると、とても伸びて、能力を開花させるとともに、親との関係も、通常以上に良いということになるが、 否定的な関わり方をすると、問題が噴出することになる。良い方にも悪い方にも、違いが大きく出やすい。
境界性パーソナリティ障害や薬物依存症といった問題を抱えた人の母親に、大勢会ってきた。そこには共通する特徴がある。それは、気持ちを汲みとり理解するのが苦手な人が多いということだ。
母親自身、情緒不安定で衝動的で、気まぐれだというケースもあるが、合併で、安定して、一見すると問題がないというケースもある。ただ、どちらにも当てはまる頃向として、子どもの気持ちを汲みとり、子どもの立場で気持ちを考えながらやり取りするということがうまくできないのだ。
表に出る言動や行動だけで、物事を見てしまい、その背後にある気持ちを感じることができない。表面的な事実や結果にばかり関心が向いて、義務や理屈で考える。その結果、できていないことや欠点にばかり注意がいくことになる。
そうしたタイプの母親に、何か困っていることを相談したりすれば、有効な助けを得られるどころか、困っていること自体を非難されたり貶されたりする。困っていること自体が、努力が足りないことであり、悪いことになってしまう。
子どもは下手なことは言えなくなり、悪いことや困っていることがあっても、自分の中で処理しようとする。子どもは、「良い子」となって母親の言いなりになるか、「悪い子」になって反抗するしかないが、どちらにしても害を免れない。
問題にうまく対処する第一歩は、問題に感情で反応しないことだ。
安定した愛情に恵まれなかった人や傷にとらわれた人は、感情的になることで、問題をこじらせてしまう。自分から傷口を広げ、小さなかすり傷を、命にかかわる傷にしてしまう。それは馬鹿げたことだ。
一つ大きく深呼吸して、気持ちを落ち着けたら、まずすべきことは、事実と気持ちを切り分け、事実だけを冷静に見つめること。
人は恐れていることや期待していることを、事実と勘違いしてしまいやすい。不安定な人では、余計に事実と思い込みの取り違えが起きる。
思い込みは、傷ついた気持ちが映し出された幻だ。幻にとらわれて、過剰反応してしまうことで、余計に事態をまずくしてしまう。
嫌なことがあったとき、何が起きたかを、冷静に振り返ってみることだ。
いつも挨拶してくれる同僚が、そっぽを向いたままなのを見たとしよう。人の顔色を気にする人は、すっかり落ち込むかもしれない。自分を無視されたように受け止めてしまうのだ。
また、他の人が集まって楽しそうにしゃべっているのを見ただけで、嫌な気分になる人もいるかもしれない。自分がのけ者にされたと思ってしまうのだ。
こうした反応をどう思うだろうか。ちょっと敏感すぎると思う人もいるだろうし、自分もそんなときがあると感じる人もいるかもしれない。
心が傷ついた人は、普通の顔を見ても、怒っているように感じたり、悪意を持たれているように受け取ってしまいやすい。
母という病に苦しんできた人は、大抵否定されたり、傷つけられたりした人なので、何気ない素振りや意味のない表情にも、敵意や怒りを感じてしまう。いつも自分が恐れてきたものが、見えてしまうのだ。
余計なことに傷つかないためには、どうしたらいいだろう。
その一つは、自分に言い聞かせる言葉を使うことだ。たとえば、「他のことに気を取られていたんだ。別に意味はない」と言い聞かせる。
「みんながただ集まって盛り上がっていただけだ。別に意味はない」と言い聞かせる。
「あの人は怒っていなくても、怒ったような顔なんだ。別に意味はない」と、言い聞かせる。
言い聞かせるという方法は、かなり効果的だ。
もう一つは、自分の身に起きたのと同じことが、別の人に起きた場合を想像してみる。自分が信頼する安定した人格の人を思い浮かべて、その人だったら、どう受け止め、どう対応するか考えてみる。すると、事態が客観的に眺められ、冷静になることができるし、もっといい受け止め方や反応の仕方も見えてくる。
日頃から、安定した愛着スタイルの人と接して、その人の考え方や行動の仕方に触れていることは、知らずしらずそれを学ぶことになる。
安定した愛着を育むのに大切なことは、結局、一言で言えば、互いが互いの安全基地となるということだ。
そのためには、安全が守られ、安心できるということが何よりも大事だ。ネガティブな反応をしないということは、安心感を傷つけないということでもある。
その場合に、知らずしらず相手の安心感を損なってしまうのが、相手を思い通りに支配しすぎることだ。安全基地のはずが、相手の主体性を侵してしまい、押し売りや監督官のようになってしまう。相手は、のびのびと自分を出すことができず、息苦し く感じてしまう。
母という病を抱えた人は、自分と他人の境目がもろい。母親の意思を自分の意思のようにいつも感じ、支配されてきたため、自分の気持ちと人の気持ちをうまく区別することができない。
自分が望むことを相手も望み、自分が恐れることを相手も恐れると勘違いしやすい。自分と同じように相手も感じていると思い込んでしまう。逆に、相手が求めていることや恐れていることが、自分の気持ちだと錯覚してしまうこともある。たとえ、相手が求めていることが、自分にとってためにならないことであっても。
親しくなればなるほど、相手と自分との境目が曖昧になり、支配されたり、支配したりが起きやすくなる。なぜなら、その人の母親も、その人をそのように扱ってきたからだ。長年、母親がその人にしたように、その人もまた愛する人にしてしまう。それは相手の自立、自分の自立も損なう。いつのまにか、押し付けや支配や依存が起きやすい。
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