小石川真美「親という名の暴力」

 これほど具体的に境界性人格障害について書かれた著書は他にないのではないか。やはり解説書となると抽象化されて書かれていて、実態がわからないところがある。本書は、障害に悩む本人の心情が、東大卒の医者とあって、かなり詳述されていてよくわかる。

 気違いのような行動をとっている時も、どういう感情であるかを冷静に書き記していることに驚いた。つまり、行動力が突出しているということなのかもしれない。

 しかし一方で、これだけ詳述されていても、やはり文章では当事者の切実さというのを伝えるには限界があると感じた。これだけの文才があってもそうなのだから、身の回り、つまり自分から近親者に伝えるとき、また、近親者から聞くときは、そのようなことを踏まえて対峙する必要性を切に感じた。


 何故そう感じたか―今も昔も、大人になるまでにできるようにならなければならない事柄は、あまり変わらないだろう。昔は、子供が幼い内から、親が少しずつレベルを上げながら、それらのことを教え込んでいったから、多くの子供がそれ程困難なく習得できたけれども、今では小学校の終わり頃まで野放しにされる子供が増えて、それらの子供の多くは、中学頃から大人の社会生活に必要なことを、いきなりあれもこれもと教え込もうとしても、反発したり消化不良を起こしたりして却々習得できない為に、身体は大人になっても、能力や人格の面で大人の中身を備えられない人間が、今は昔より大幅に増えていると感じるからである。

 また母は、社会規範についても、具体的な事例から教え込んでくれた。例えば私が外で壊れたおもちゃを拾って持ち帰っても、母は「そうやって、黙って他人の物を盗るのは泥棒よ。今すぐ元の所に置いて来ないと、おまわりさんが捕まえに来るよ。」と、真剣に怖い顔をして叱った。それで私はすぐに、おもちゃを元の場所に置きに行き、以後は他人の物に無断で触ることも、却々できないようになった。

 後で詳しく書くように、母の場合、この有無をも言わさぬ”母親絶対”が、完全に個人の自由に属するべき、ものの考え方や感じ方や価値観にまで及んでしまった為、私は精神の健全な成長を阻害されることに なった。しかし今挙げたような、誰にとっても習得するのが望ましいこと、正しいことがひと通りに決まっていることについては、「有無をも言わさぬ」で良かったと思っている。

 同じ頃、父も躾が厳しかった。母が教えてくれたのが、具体的、個別的な事柄が多かったのに対し、父が教えてくれたことは、もっと抽象的な道徳観念、つまり、人として持つべき基本的な心の姿勢に属することが多かった。

 父が私に教えた最も大きな二つのことは、「自分がやられて嫌なことは絶対他人にやるな。」ということと「自分なりの目標を立てて、達成するまで頑張り抜け。」ということだった。私は、親が子供にどうしても教え込まなければならないものの考え方は、この二つに尽きると考えている。

 何故ならまず、一つ目のことの奥にあるものは、他人の痛みがわかる共感性で、それさえしっかり身に着けば、自分の勝手な気分や欲望から他人を傷つけることはしなくなると思うからだ。級友を自殺に追い詰めるまで虐めるとか、遊ぶ金欲しさに他人を死ぬまで殴る蹴るといったことはできなくなるだろう。

 そして二つ目のことが身に着けば、目標を達成した時に、自分の価値が実感できるし、また目標に向かって努力している間にも、進歩や成長の喜びが実感できる。そして自分の価値が実感できれば、自分を愛し、 大切にしようと思えるようになる筈だからだ。そうすれば、金の為の援助交際だの、刹那の快楽を得る為の違法薬物の使用だので自分を粗末にしようなどと思わなくなるだろう。

 更に、共感性と目標に向かって努力することの二つが身に着けば、自分のやりたいことで自分にできることの中から、しかも何かしら他人の幸せに繋がることを、人生の目標に据えて生きられるようになり、他人の喜ぶ顔からも自分の価値が実感できて、幸福感と充実感を持って生きられるようになると思う。だからこれらの、人として生きる上で最も大事な二つのことをしっかり教え込んでくれた父にも、深く感謝している。

 そもそも躾というのは今述べたように、子供が将来社会の中で他人に迷惑を掛けず、自分の夢や目標を実現し、他人や社会の幸せに貢献して、幸福感と充実感を持って生きられるようにする為に、必要な道徳や社会規範を身に着けさせる行為である。本物の躾とは、間違いなく親の深い愛情に根ざした行為である。だから、その本物の躾を、私にしっかり施してくれたことについては、私は両親に深く感謝している。

 しかし恨み、憎しみなどのマイナスの感情は、意識下に封じ込めてしまうと、一見消えたように見えるものの、実際には消えて居らず、意識下で燻り発酵し、精神の内圧は次第に高まっていく。そしていつも苛々と、訳のわからない不快感に悩まされるようになる。そして激しく、その捌け口を求めるようになるが、実際に捌け口にされるのは、最も身近に居て、最も立場が弱く、たとえ捌け口にされても世の中から最も目立ちにくい、我が子になる場合が一番多い。親が子供に辛い仕打ちをしても、「躾の為に叱っている」という言い訳が通り易いし、特に日本では、他人は他所の家庭のことに口を出すべきではない。という社会通念が強くて、家庭が治外法権の場になり易いからである。

→これこそが問題を難しくしている根源であると思う。暴力ではなく言葉はすぐその場でそれがどれほどの影響を及ぼすかが証明できないので、難しい。しかし、間違いなく子どもに対する影響は大きいに違いないのである。


 とにかく母は、自分一人だけが私にとって、他の誰とも較べものにならない程大切な存在であって、私から下にも置かない位大切に扱われないと、どうにも我慢ならなかったのである。私はほぼそれに近い扱いを母に対してしていたと思うのだが、それでも私が母以外の人間に対して何かちょっとでもしてあげると、母は猛烈に不満で、しかもそれをあからさまに言葉で訴えてきた。自分が如何に幼児のようなみっともない駄々を捏ねているか、当時の母には全く自覚できないようだった。

→線引きが難しい問題である。多かれ少なかれ、人はこういう感情を持っていると思う。自分もご多分に漏れず、である。しかし、やはり程度問題ということになろうか。パワハラやセクハラと同じだが、当事者同士の問題で払うが、この線引きが難しい。


 …私が幼少時からの精神支配に抗議したのに対して、母がそれまでの「私は支配なんかしていない。」というのに加えて、「そんなのは、あんたが勝手に組み立てたストーリーよ。」というようになったことである。―どうしてわからないのか。どうして認めないのか。私にとって、これほど口惜しくて耐えられない言葉はなかった。

→「どうしてわからないのか。どうして認めないのか。」この言葉はあまりにも重い。もちろん、人間はその人ではないのだから、究極的にその人の心情はわからないということは十分に理解しつつも、だからこそ他人のことを理解しようとする努力・勉強を我々はしなくてはならないだろう。そういう前提に立っても、これだけ聡明な著者の説明でも伝わらないのか、いや、論理的に説明することがかえって逆効果となっているのか、難しい。

男はつらいよ 令和

男はどこまで我慢するべきなのか 妻の言動は虐待なのか性格の問題なのか線引きの難しさ そしてそれゆえに離婚の成立要件にならない現状 これらの問題に正面から取り組む

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